
竹治氏は、年少の頃から家業の農林業に従事し、独自の発想と工夫で、より使い易い農林業機具の改良を行ってきた。
竹治式炭窯は、独自の水利用消化操作機能で炭化時期を逃さず、一般家庭でも竹炭、木炭をはじめ焼き芋や燻製も簡単にできる製品である。
また、竹炭や竹パウダー(独自粉砕機開発)、発酵有機肥料(豚糞、商品名五石どり)などを活用した土づくりや自然農法の普及活動も実践しており、講演依頼も多い。
専用の竹炭窯や竹パウダー製造機械を開発し、竹が農業用資材に加工・利用され、有機農業の普及活動で成果をあげている。
山村資源を活用した商品開発につなげるための機器の開発という取組みが、今後の波及効果の期待も込めて評価された。

電気が通ったのが昭和37年という泰阜村最奥の集落「栃城」。その栃城への道路が未だ開通していなかった昭和36年頃、中学3年生の木下氏は集落の人々が生活できる基盤を作ろうと決意。
しかし、10年ほどは炭焼き、蚕、土方作業を転々として基盤を作るには到底遠い状況だった。
昭和48年、電気や道が通らないほど狭い谷という過酷な自然環境を逆手にとり、栃城集落全戸が組合員となり(山林を担保にして)当時のお金で1,200万円の借金をして渓流魚養殖漁業を始めた。以来現在まで、住民全員が何らかの形でアマゴの養殖・採卵事業に年間を通じて関わりビジネス化している。
また、平成11年に村内NPOとの協働による「長期子ども体験村」で劇的に成長・変化していく子ども達の姿を見て以来、現在まで、実行委員長として都市と山村との交流活動を始め、泰阜村のファンを次々と創っている。
山村地域の資源を発掘しアマゴの養殖業を集落一体で成功させるとともに、NPOとの出会いを契機に都市に山村の魅力を伝えるための活動が地域を巻き込んだ広い取り組みに拡大している。
30年以上にわたり継続した取り組みであり、地域に根ざした山村リーダーとしての実績が高く評価された。

藤井氏は、平成13年、52歳でUターンし、自力で間伐作業路開設、町内有数の山林所有者の堀江氏と共同で間伐を実施。平成16年台風で整備した山が全滅。
その後、台風の倒木処理と「森は海の恋人」を実践するため、堀江兄弟と一緒にNPO法人「自然と釣りのネットワーク」とヒノキの間伐材を使ったアオリイカの人工産卵床を設置。
また、台風被害地を災害のおきない昔の豊かな森に戻すとともに、猿や猪などとの共生・すみわけをするために、広葉樹を植林。
このほか独自の施業により、はっ葉山業、山菜山業、山野草、民間薬草山業ができると確信。
今後、堀江家を含めて所有している山林を生かして50年毎の錦帯橋の架け替え材料としての不伐の山を作っていきたい。
ヒノキ間伐材をアオリイカの産卵床に利用する取組みは、産卵も確実に見られ、山と海をつなぐシンボル的な取組みと評価された。また、錦帯橋の架け替え材料として不伐の山を作っていくなど、イマジネーションが広がっている。